『コンビニ人間』(村田沙耶香著)

  考察1

2016年芥川賞受賞作『コンビニ人間』村田沙耶香著

 要約

世間の常識から外れた主人公・古倉。幼少時から他人と共感できず、正直な言動がしばしば問題になる。自分の異常さを痛感しながら、人間関係に戸惑い、小中高にわたって目立たないことだけを考える。ところが大学生になってある日、たまたま目に付いたコンビニのアルバイト求人に応募し、採用される。どうしても正常な人間を「演じる」ことができなかった古倉はそこで、完璧な「コンビニ店員」になるためのマニュアルを手渡される。制服の着方から笑顔の作り方まで教えてもらい、初めて自分が「世界の正常な部品」に生まれ変わったと実感する。18年後、36歳になっても、時間が止まったかのように就職や恋愛もせず、コンビニでアルバイトを続けている古倉は、自分が次第に世間の思う「正常な人間」から再び遠ざかっていることを知り、焦る。もっとうまく人間を演じ、元同級生や妹の不審を避けたいと思う古倉。そこで、ある出会いをきっかけに、危うい成り行きに身を任せる。世間を欺き、もっと普通の人間になろうとするのだが・・・ 


ひとくち感想

 コンビニの正確すぎる描写が眩しく光る作品。また、日常的な物事を未知で異質なものとして映し出す文体と、暴力性に対する敏感な意識を厚く評価すべきだろう。冒頭部分は一流の文学に違いないが、設定が一旦出来上がると作者は固定観念を崩したがらず、ラノベっぽいところがある。登場人物は面白いがあまり奥行きがなく、中には人格が崩れて作者に吹き込まれたような台詞を吐く場面が気になる。話の収束は迫力があり、印象深い。


考察 1

『コンビニ人間』を読み、多くの喜びを得ると同時に、ひっかかる部分があった。読み終わって特に気になったのは作品の《テーマ》と《設定》の関係性だった。

作品自体の少しブラックな滑稽さと不気味な文章は相当の功を奏し、評価すべきところが多い。が、ここで一度作品の無意識に探りを入れ、『コンビニ人間』の《テーマ》と《設定》に秘められた可能性と課題性を明るみに出してみたいと思う。

 

コンビニ店員として生まれる前のことは、どこかおぼろげで、鮮明には思いだせない。

郊外の住宅地で育った私は、普通の家庭の家に生まれ、普通に愛されて育った。けれど、私は少し奇妙がられる子供だった

 

画面に含まれるもの、含まれないもの

文学は他のあらゆるメディアと同じように、受け手に見せるものが限定されている。カメラを例にとれば、フレームに含まれるものと含まれないものが必ずある。何を見せ、何を見せないかは常に製作者によって選ばれているのである。万物が流転する世の中に、焦点を絞り、見せるものを限定すると、はじめて一つのストーリーが浮き上がってくる。

 文学作品の場合、焦点を絞ることで、普段なら見過ごしてしまう現実が見えやすくなることを「暴露」という言葉で表現し、かえって現実が見えづらくなったり、見過ごしやすくなったりすることを「隠蔽」という言葉で表現することがある。

例えば、謎の大事件があったとしよう。その難解な事件を要領良く取り上げ、因果関係などを的確に明かすニュースは現実の「暴露」にあたる。隠されていたことが急にみえるようになる。しかし、同じ事件で、すべての要点を的確に拾うことができず、間違った原因が伝えられれば、現実が虚偽によって「隠蔽」されることになる。真実が別の解釈(ストーリー)に覆い隠されるからだ。

フィクションといえど、必ず「人間生活」という極めて現実的なものをなぞってつづられる文学作品にもまた、画面に含まれる現実と、画面に含まれない現実があるのだ。

 

ストーリーの《設定》と《テーマ》の違い

《設定》と《テーマ》はどう違うか。

簡単に言えば《設定》は舞台とレンズのようなものである。物語を構成する場所、時代、登場人物、そしてそれらを眺めるためのレンズや角度はすべて《設定》であり、物語の基盤と雰囲気を作り出す。それに対して《テーマ》とは追求していく主題のことである。

換言すれば、《設定》と《テーマ》の関係性は手段と目的のそれと同じである。

『コンビニ人間』では、「異常な人間」からみた、読者自身の暮らす「通常の世界」が描き出されている。そして作品の主な関心、すなわち《テーマ》は世間における暴力性と排他行為、そして人間の不合理さにあてられている。

見過ごされやすい世間の日常的な暴力性、ほぼ問われることのない人間の不合理さ、そして他の人と異なる少数派といわれる人々に強いられる「同化」と「排斥」。これらの《テーマ》を目立たせ、追求していくために、作者は他者性に富んだ異常な人物を主人公に据え、その人物の抱える問題や人格を効果的に利用する。そして見事に世間の暴力性も、人間の不合理さも、排他行為の核心にあるものを確実に暴いていく。

しかし、それと引き換えに、『コンビニ人間』はまた重要なリアリティーを覆い隠しているのである。
 

設定に過ぎないもの —絶対的な異常さと本質的な他者性—

『コンビニ人間』の世界は「異常さ」と「正常さ」の概念によって支えられている。あるいは、支配されていると言った方が良いかもしれない。物語の世界が根本的に正常な人物や空間とそうでないものに仕切られているところもそうだが、主人公の他者性そのものが主人公の人物造形および物語の成立条件のようなものになっている。

本来ならば、「正常さ」と「異常さ」は主観的な価値判断で成り立つ固定観念である。「正常」と「異常」はゆらぎと矛盾に満ちているだけでなく、複数の観点が存在するところにおいて、必ず可塑的な概念でもある。なぜなら、「異常者」といわれる人からすれば「正常者」こそ異常なのである。これが重要な真実である。

しかし『コンビニ人間』の世界では、「同一性と正常さ」、そして「異質性と異常さ」がそれぞれ混同され、完全に癒着している。「正常なもの」は誰からみても正常であり、「異常なもの」は誰からみても異常であるという風にされている。そしてストーリーが正常と異常のはざまに置かれているが、作者は決してこの2つの固定観念を崩し、読者に考え直してもらおうとしない。それどころか「正常さ」が絶対的な概念に昇華され、既成事実として扱われ、そしてそのゆらぎや矛盾が完璧に覆い隠される。その固定観念を懐疑的に取り上げる余地を残さない。

『コンビニ人間』に関して言えば、主人公・古倉がとにかく異常であることが、読者、世間一般、そして古倉自身に、ごく一元的に認められている当たり前なことになっている。古倉の他者性と異常さは絶対的である。
 

障害と古倉の反社会性

さて、主人公はどのように「異常」であるか。

根本的に他人の気持ちに共感できない古倉は、作中の描写からして、重症の反社会性人格障碍(サイコパシー)を抱えているらしい。小鳥の死を悲しむ同級生の気持ちはおろか、人を痛めつけたりすることの何がいけないかさえも理解できないという。大人の古倉が、甥っ子を静かにさせようとあやす妹の姿を前に、テーブルの上の「ナイフを見ながら、静かにさせるだけでいいならとても簡単なのに、大変だなあ」などと何の感情もなく思う場面さえあるくらいだ。

作品の冒頭部分では「理解できない子供・古倉と説明できない大人」のやりとりや「同化しようと周りを観察し苦労する古倉」の姿が真に迫り、主人公の「障碍」は二方向に働く。一方では、「普通」の人々の過酷な暴力性と矛盾に満ちた感情性が浮彫りになる。理解も共感もできない古倉にはもちろん他者めいた恐ろしさがある。しかしそれと同時に、読者の目の前に繰り広げられる光景が葛藤に満ちている。自分の意思とは関係なく、周りに受け入れられない人間が一人でもがいたり、修正されるべき異常な存在として扱われたりするという複雑な光景である。そのまま掘り下げようと思えば、社会と人間性にまつわる多くの矛盾を掘り起こせたはずだ。

しかし、『コンビニ人間』はその問題性に関心を寄せない。古倉の「障碍」は「異常さ」と同じように、あくまでも物語の《テーマ》を際立たせる《設定》でしかなく、懐疑的な関心の対象では決してない。

つまり、こういう言い方もできる。作者が主人公から「社会性」を奪い、障碍を与えたのは、読者にとってもっともリアルな意味で共感できない主人公を作り上げるためだったのである。そういう《設定》を作ったのに過ぎないのである。
 

皮相の世界

この設定は文体のモチーフや比喩によって見事に強調される。

作品にわたって、作者は生物学的な言説を用いて主人公とコンビニにまつわる世界を映し出す。同じ人間を生物学的な異種として描写(直喩)することは、《読者》と《登場人物》と《主人公》の間に横たわる距離と疎外感をさらに押し拡げる。

 

オープンの時間が来て、社員がドアをあけた瞬間、私は「本物だ」と思った。研修で想定していた架空の客ではなく、「本物」だ。いろいろな人がいる。オフィス街だからスーツや制服姿の客ばかりを頭に浮かべていたが、最初に入ってきたのは、皆で配った割引のチラシを持った、住民風の集団だった。最初の客は、年配の女性だった。つえをついた女性が一番に入り、おにぎりやお弁当の割引のクーポンを持った客が大勢、それに続いて店に流れ込んでくる光景を、私は呆然と眺めていた。

「古倉さん、ほら、声出して!」

社員に言われ、私は我に返った。

「いらっしゃいませ!本日、オープニングセール中です!いかがでしょうか!」

店の中で行う「声かけ」も、実際に「お客様」がいる店内では、まったく違う響きした。

「お客様」がこんなに音をたてる生き物だとは、私は知らなかった。反響する足音に、声、お菓子のパッケージをかごに放り込む音、冷たい飲み物が入っている扉をあける音。私は客の出す音に圧倒されながらも、負けじと、「いらっしゃいませ!」と繰り返し叫んだ。

まるで作り物ではないかと思うほど綺麗に並んでいた食べ物やお菓子の山が、「お客様」の手であっとういう間に崩されていく。どこか偽物じみた店が、その手でどんどん生々しく姿を変えていくようだった。

 

『コンビニ人間』の世界では、現実は常に表面的なまがいものに差し替えられている。ただでさえ表面的にしか理解し合えない主人公と周りの登場人物の生み出す作用が、作者の駆使する比喩やモチーフの効果と相まり、「皮相の世界」を絶妙に創り出す。その効果は仮面の《皮相さ》のそれと同じである。実態が表面的に覆い隠され、そこにあるべき姿や奥行きが消滅してしまうと、今度は人知を超えた深さが生み出される。絶対的な皮相さは、逆説的に絶対的な深さを作り出すのである。

仮面は存在や次元の越境を可能にする道具である。人が仮面を被ると、どんな神や怪物にもなれるが、『コンビニ人間』では、現実そのものが仮面を被っている。その作用は一種の「隠蔽」であり、『コンビニ人間』の不気味な雰囲気と独特な世界観を静かに支えているのである。そして文体と《設定》もまた支え合う。

 

 朝、こうしてコンビニのパンを食べて、昼ごはんは休憩中にコンビニのおにぎりとファーストフードを食べ、夜も、疲れているときはそのまま店のものを買って帰ることが多い。2リットルのペットボトルの水は、働いている間に半分ほど飲み終え、そのままエコパッグに入れて持ち帰り、夜までそれを飲んで過ごす。私の身体の殆どが、このコンビニの食料でできているのだと思うと、自分が、雑貨の棚やコーヒーマシーンと同じ、この店の一部であるかのように感じられる。

・・・

「一緒にはいけません。私はコンビニ店員という動物なんです。その本能を裏切ることはできません」

・・・

 私はふと、さっき出てきたコンビニの窓ガラスに映る自分の姿を眺めた。この手も足も、コンビニのために存在していると思うと、ガラスの中の自分が、初めて、意味のある生き物に思えた。
『いらっしゃいませ!』
 私は生まれたばかりの甥っ子と出会った病院のガラスを思い出していた。ガラスの向こうから、私とよく似た明るい声が響くのが聞こえる。私の細胞全てが、ガラスの向こうで響く音楽に呼応して、皮膚の中で蠢いているのをはっきりと感じていた」

 

こうして主人公は共感を拒絶する他者という境地を超え、細胞レベルでコンビニと一体化し、恋愛も性欲も知らない、一般の人間とは異なる動物でありながら、皮相的に人間になりすまそうとしている怪物的な存在である。主人公の異常さが関わるところにおいて、読者の不安は常に主人公に向けられており、受け入れない世間に向けられることはないと言っていい。

『コンビニ人間』は一見「異常さ」や「障碍」を《テーマ》としているようで、実はこれらの概念の含む問題性を懐疑的に考える余地を残していない。

人間の不合理さを取り上げるが「正常さ」の誤謬性を見つめ直さないし、世間の暴力性と排他行為についてあれこれと見解を述べるが、「障碍」と呼ばれる一つの人間的な存在形態を肯定しようとするわけでもない。そして両概念を当然視することで、それぞれの問題性を隠蔽し、多元的な倫理観の有用性を排除する。
 

「古倉」は一体何だったのか

作者は作品における「正常さ」と「障碍」を《テーマ》として追求せず、《設定》に限定した。そして、その《設定》を手段に、世間における暴力性と排他衝動、それに人間の不合理さを見事に浮き彫りにした。しかしそれとは反対的に、古倉に秘められていた多くの葛藤と可能性を活かさなかった。《設定》がついにテーマに取り入れられなかったことは作品の大きな課題だったと言わざるを得ない。

最終的に、古倉という人物は、「世間の見過ごされる側面を考えさせてくれるきっかけ」というよりも、「世間の見過ごされる側面を映し出すためにこしらえられた鏡」なのである。古倉は「正常な人」が「正常な人」のために書いた「異常な人」で終わってしまう。『コンビニ人間』の無意識の課題と可能性はともにこの点にあると言っていいだろう。


 次回つづく